猿田浩得(J-GREEN堺)、プロサッカー選手の使命は「関わる人達を幸せにする」こと


タイのサッカープレミアリーグで、「キング」と呼ばれていた日本人の元プロサッカー選手がいる。彼の名は、猿田浩得(さるた ひろのり/38歳)。猿田さんは大学を卒業後、愛媛FCとYKK(現カターレ富山)でプレー。その後シンガポールとタイで大活躍を果たし、2018年2月に現役を引退した。猿田さんは現在、日本最大級のサッカー施設J−GREEN堺で運営業務に携わっている。今回の<後編>では、海外時代を振り返り、プロサッカー選手を目指す子供達に向けてメッセージを贈ってくれた。

猿田浩得(元プロサッカー選手)が海外を選んだワケ「柴村直弥から受けた影響が大きい」<前編>



――海外は、まずどこへ行きましたか?

猿田:まずアメリカに行きました。英語はABCのアルファベッドも分からなかったですけどね。大好きなベッカム選手がメジャーリーグでプレーしていたので、「対戦したい」という気持ちだけで飛び立ちました。

――凄い行動力ですね(笑)。ベッカムとプレーできましたか?

猿田:できませんでした(笑)。

――え。それで、どうしたのですか?

猿田:まずインターネットで選手募集をしているチームのトライアルがあることを知り、「絶対に合格する」と思って受けてみました。その後色々あってアメリカに3ヶ月もいましたが、どのチームとも契約できず、所持金150万円も底を突きそうだったのでチャレンジは終了しました。

――アメリカで大変な目に遭ったのですね。

猿田:そうでしたが、多くの縁がありシンガポールのチームと契約することができました。



――急展開でしたね。どのような縁が?

猿田:元チームメイトの瀬戸春樹さん、中村彰宏さん、柴村直弥、村上範和さん、深澤仁博さん、新井健二さん、末岡龍二さん、望月隆司さん、金古聖司さんなどなど、Jリーグでも活躍した先輩方を通じて、シンガポールで契約できました。

――沢山の人達による力添えがあったのですね。シンガポールは英語ですよね?どう身につけましたか?

猿田:英語です。シンガポールの知り合いが紹介してくれた、スカイプのオンライン英会話で学びましたね。他には、チームメイトと積極的に外食に行って耳を慣らし、ジェスチャーを加えながら英語で会話する努力をしました。色々な人たちとの会話から単語や文章をインプットして、オンライン英会話でアウトプットすることを繰り返しました。

――サッカーと同じで、語学も繰り返すことが大切なのですね。シンガポールでのサッカーはどうでしたか?

猿田:僕はプライドが高かったので、シンガポールのレベルを下に見てしまい、監督とよくバトルしましたね。

――どのようなバトルを?

猿田:「郷に入っては郷に従え」ということにフレキシブルに対応できなかったのです。でも、ここでの経験が役立ってタイで活躍することができました。

――なるほど。その後タイへ渡ったのですね。

猿田:シンガポールは刺激的で楽しく、契約期間も半年残っていたのですが、トライアウトの話が来たベトナムへ渡りました。

――またまた急展開。ベトナム人はサッカーが上手ですよね。

猿田:そうですね。技術がしっかりしていて上手でしたね。外国人は、ブラジル人とアフリカ人などの上手くて強い選手が大半を占めていました。

ベトナムでは監督と選手が全員1年間一緒に暮らす、という合宿スタイルのチームだらけでしたね。



――上手くいきましたか?

猿田:ホーチミンの強豪チームにトライする予定で、現地に向かいました。到着するとチームがハノイで合宿しているということを知り、急遽ハノイに乗り込みました。でも実際は、合宿ではなく大会に参加していて、練習もセットプレーなどの軽いメニューばかりで何もアピールすることができませんでした。

――また話が違ったのですね。それで、どうしたのですか?

猿田:大会が終わってホーチミンに戻ったのですが、ビザを持っていない僕は14日間しか滞在できないことを、現地で初めて知りました。もちろん、その時点でサインの話も全くなかったので、日本へ戻りました。すると、すぐにタイでのチャレンジの話が来ました。

――タイへ渡ったのですか?

猿田:そうですね。すぐトライしに行きました。タイのチームは、ベトナムとは違い、1人1人に部屋を用意してくれました(笑)。





――良かったですね(笑)。トライアウトはどうでしたか?

猿田:まず末岡隆二さんがいるバンコク ユニバーシティ(現バンコクユナイテッド)のトライアウトに行く予定で、タイに入りました。でも、チームがオフ期間だったので、それが明けてから練習に参加することになりました。

――どこへ行っても、話が上手く進まなかったのですね。練習に参加してみて上手くいきましたか?

猿田:そのオフ期間中に、プレミアリーグ所属のシラチャFCが「攻撃的な日本人選手を欲しがっている」ということを知り、先にシラチャFCのトライアウトを受けてみました。シラチャFCは、当時、丸山良明さん(現セレッソU23監督)が契約したタイの強豪チョンブリFCの姉妹チームでもありましたね。

――結果はどうでしたか?

猿田:合格しました。



――素晴らしい。シラチャFCはどのようなチームでしたか?

猿田:クラブがあるシラチャという町には、多くの日本人が住んでいて、日本人学校もありました。シラチャFCのオーナー(市長)は、日本人を大好きで、面倒見が良くて色々と世話をしてくれましたね。

僕はシラチャFCに入ったことで、タイという国が好きになり、その後の活躍に繋がったのではないかと思います。

――プレーしやすかったですか?

猿田:そうでしたね。若い選手が多いチームでしたが、後にタイ代表になる選手が3、4人もいました。モチベーションと勢いがあり、相手が強いとテンションが上がっていましたね(笑)。

――タイ語をマスターするのは、かなり難しそうです。

猿田:そうでしたね。仲良くなったアルゼンチン人の選手と毎日、練習前にシラチャFCのオフィスへ行き、事務の人達にタイ語を教えてもらいました。そのアルゼンチン人とは、タイ語で会話をするようになりましたね(笑)。

――それは面白いです(笑)。1年目の成績はどうでしたか?

猿田:シラチャFCは強豪チームに勝てましたが、取りこぼしも多く、1年でプレミアリーグから降格してしまいました。僕個人は強豪相手の試合で結果を出せていたので、レベルの高い数チームからオファーをもらうことができました。



――移籍をしたのですか?

猿田:降格したシラチャFCに残留して昇格に貢献しようと考えました。でも、バンコク・グラス(現バンコク・パトンタニ・ユナイテッド)が高い給料で熱心にオファーをくれたので、移籍を決断しました。

――バンコク・グラスで結果を出せましたか?

猿田:移籍1年目になかなか活躍できなかったですが、監督は辛抱強く僕を試合で使ってくれました。タイでは結果が出なければ、すぐ解雇になりますが、クラブは次の年も更新してくれましたね。

――移籍2年目。勝負の年に?

猿田:タイリーグのベスト11に選出されました。

――おめでとうございます!

猿田:ありがとうございます!僕は得点王も狙えたのですが、最後に3、4試合を残して肉離れを起こしてしまい、実現しませんでした。



――ベスト11に選ばれたのは、得点力が評価されたのでしょうか?

猿田:チームはリーグ戦中盤に、優勝争いできる位置にいました。僕は、年間のリーグ戦で13~15ゴールできました。ただ、他にも活躍していたブラジル人選手やフランス人選手が、なぜベスト11に選ばれなかったのかが分からなかったですよね。僕はキャラクターで選ばれたのかもしれないですね(笑)。

――実力と人気が伴っての受賞だったのでしょう(笑)。

猿田:ありがとうございます(笑)。このベスト11に選ばれたことによって、「タイで長くプレーしたい」と考えるようになりましたね。

――それだけ活躍をすれば、チームは手放せないですよね。他チームからのオファーも凄そうですが。次の年も契約を更新したのですか?

猿田:そうですね。給料と知名度が急激に上がり、タイのTVに出演するようになりました。また、この年に、丸山良明さんとバンコクでサッカースクール(CREER FC )を立ち上げました。



――また、なぜスクールを立ち上げたのですか?

猿田:丸山さんと、親の都合で「サッカーができない子供達がいる」という話をしていると、僕たちがスクールを立ち上げて子供達に「サッカーができる環境を与えたい」という使命を感じたからですね。

他には、選手を引退してからセカンドキャリアに向けて、スクールと会社を立ち上げる、という経験をしたかったからですね。



――現役時代から貴重な経験を積む。丸山さんも素晴らしい方ですね。タイ5年目はどうでしたか?

猿田:チームと契約を更新しました。新任のイギリス人監督が体の大きい選手を好んでいたので、途中出場が増え、怪我も多くなりましたね。

またこの年に、バンコクグラスとセレッソ大阪が業務提携を結びました。その契約交渉の場に立ち会ったこともあります。



――活躍の幅がどんどん広がりましたね(笑)。

猿田:バンコクグラスのオーナーにセレッソ大阪の事務所まで強引に連れて行かれましたが、とても貴重な経験ができたので感謝しています(笑)。バンコクグラスとセレッソの関係は今でも良好なので、嬉しいですね。

――猿田さん、グローバルに貢献し過ぎです(笑)。

猿田:バンコクグラス時代には、お笑い番組、サッカー番組に出演などの話が沢山ありました(笑)。

「活躍したら注目されるのだ」と思いましたね(笑)。

「a day」という、タイで大人気の雑誌ではモデルもやりました🤣🤣🤣。



――「キング」という名の通り、大スターだったのですね。ところで、いつ頃から「キング」と呼ばれるようになったのですか?

猿田:ニックネームは基本的に「SARUTA」でしたが、選手生活最後の方でいつの間にか「キング」に変わっていましたね🤣🤣🤣。

当時、一番長くタイでプレーしていたからだと思います。 詳しく調べたわけでないですが、僕以外に8年間タイのトップリーグに続けてプレーした選手は、いなかったようです。でも、ふざけて呼ばれていた感もありましたからね(笑)。

――なるほど🤣。次の年も同じチームでプレーを?

猿田:解雇になりました。



――え😢?そんな、、、。

猿田:ですが、同じバンコク市内にありファンが熱狂的なタイポートFCに移籍をすることができました。

――良かった。良い成績を残せましたか?

猿田:シーズン中頃までは1位を走り、個人的には沢山のアシストをできましたね。



――流石!やりますね!

猿田:でも翌年にクラブオーナーにトラブルがあり、チームの解散話が浮上しました。この先どうなるかと思いましたが、タイで有名な美人オーナー(タイ保険会社)がクラブを買い取ってくれたので、クラブは存続しました。



――波乱万丈ですね。日本では考えられません。

猿田:大変でした。監督、スタッフと選手達(自分ともう1人を除いて全員)が変わり、シーズン終盤に和田昌裕さんが監督に就任しました。

――和田さんは、ガンバ大阪の選手としてプレーされていましたよね。

猿田:タイで、まさか日本人監督の下でプレーするとは思わなかったですよね。和田監督はタイ人をリスペクトしていて、選手を上手くまとめて低迷中のチームを連勝するまでに押し上げました。でもリーグ戦前半に勝てなかったツケが回り、あと1勝できれば残留というところで負けて、降格してしまいました。



――猿田さんはチームに残ったのですか?

猿田:タイポートFCから契約延長の話はなく、2年間ずっと声をかけてくれていた、タイ北部のチェンライ・ユナイテッドに移籍しました。

――タイに一度行ったことがあります。北部の方は自然が多くてのどかな街という印象があります。

猿田:そうでしたね。初めての地方暮らしでしたが、家族は街を気に入り、充実した毎日を送れましたね。子供達もインターナショナルスクールに通い、僕と嫁は改めてタイ語教室に通いました。お洒落で安いカフェがあり、朝ゴルフしてからカフェでタイ語を勉強した後に、サッカーの練習に行くという毎日で充実していました。

現役引退後は、チェンライで暮らしたいと嫁と話していました(笑)。



――サッカーの方はどうでしたか?

猿田:34歳の僕は、怪我も増えて思う通りのプレーもできなくなってきました。でも、オーナーや監督、選手たち皆が僕をリスペクトしてくれていて、若手に指導をしながらプレーをするようになっていましたね。それまでの8年間、プレミアリーグでプレーしてきましたが、タイ9年目に初めて下部リーグで、しかも2つ下のカテゴリーのウドンタニFCへ移籍しました。



――2つ下のカテゴリーへ。何を感じましたか?

猿田:試合移動や練習環境もトップリーグに比べると酷かったですが、新たな楽しみもありましたね。

――どのような楽しみが?

猿田:若い選手が多く、選手1人1人に向上心もあり、新鮮な気持ちでプレーができたことですかね。チームはリーグを勝ち上がり、2部リーグに昇格できました。



――それで契約を更新したのですか?

猿田:「プレーしたい」と考えていましたが、良いチームからのオファーも無かったのですよね。選手としての自分を奮い立たす意味で、30歳を過ぎた時に、家族で決めていたルールがあります。

――ルールの内容を教えてください。

猿田:【猿田家ルール】
・給料が●円以下になったら選手を引退する。
・家族で住めない危険な場所ではプレーしない。

治安の悪い場所にある給料が良くないチームからのオファーはありましたが、このルールを守るためにきっぱり引退を決めましたね。



――そうでしたか。引退を決めた時に、感じたことはありましたか?

猿田:小さい身体で13年間もプロ生活を送れたことを、家族、嫁、子供達に感謝の気持ちで一杯になりました。

もちろん、選手としてまだプレーできる気持ちもありましたが、猿田家ルールがありましたので、すんなり引退でしたね。それで次に「セカンドキャリアで活躍する」という目標を立てました。

――ちなみに、結婚をしていなかったら現役を続けていましたか?

猿田:まず、嫁と結婚していなかったら、タイで活躍することさえできていなかったと思います。サッカーもこんなに長く続けていなかったかと。

毎試合前の整列時に、「嫁と子供達の為に活躍しよう」「笑顔がみたい」「ボーナスが欲しい」と心に誓ってから試合をしていました(笑)。

それほど、嫁と子ども達に今でも感謝をしています。



――猿田さん、家族と共に歩んだ海外サッカー人生だったのですね。これまでの選手生活を振り返り、思い出のゴールはありますか?

猿田:愛媛FC時代に、J2の開幕戦で初ゴールを上げた時のゴールですね。

プロ選手として初めてゴールをできたことと、「愛媛FC Jリーグ初ゴール」という記録を残せたことが、嬉しかったですね。

――なぜですか?

猿田:やはり、永久的に動画も流れるし、名前も覚えてもらえますから(笑)。

1993年のJリーグ開幕戦でファーストゴールを決めた、ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ1969)のヘニー・マイヤー選手の様に(笑)。



――なるほど(笑)。猿田さんは愛媛FCの伝説として、語り継がれていくのですね。プロサッカー選手として、どのような時に喜びを感じてきましたか?

猿田:試合前に、僕の子供と一緒に入場できた時ですね。

子供が生まれたことで、「活躍したい」という思いが強くなり、やる気とモチベーションも高まりました。その年にリーグ年間ベスト11に選ばれたこともあり、忘れられないですね。

――心に深く刻み込まれているのですね。プロ選手とアマチュア選手の違いは何だと思いますか?

猿田:プロは、お金をもらって、お客さんや関わる人達を幸せにする。

アマチュアは、お金を払ってプレーをする。

これが違いですね。



――なるほど。納得してしまいました。猿田さんはプロ選手を引退してから、現在、J-GREEN堺で働いていますよね。勤めるきっかけを教えてください。

猿田:大学時代のバイト先の系列店にいらした藤縄雅敬さん(J-GREEN堺前社長)に、引退する時に声をかけてもらったのですよね。藤縄さんにプロ選手になる前から気にかけてもらい、セカンドキャリアについてもよく相談していました。

・タイに残る選択
・指導者になる選択
・地元の広島に帰る選択

引退後について色々と迷いましたね。社会人としての基礎を学んで固めた上で「人生の基盤を作りたい」と考えるようになり、J-GREEN堺で働くことを決めました。



――主にどのような業務を行っているのですか?

猿田:大会を開催や運営、海外チームのアテンド、施設を運営、スポンサー集め等をやっています。

他には、コーチ業、タイへのアテンド業、夢先生、講演会で講師等も務めますね。

――ほぼ全て(笑)?何でもやるのですね!

猿田:何でも屋さんですね(笑)!



――多才過ぎです!これから、猿田さんのようなプロサッカー選手を目指す人たちへ、メッセージをお願いします。

猿田:チャレンジしない限り、次のステージには進めない。

人よりたくさん練習するのはもちろんだか、人にはない自分の武器を見つけることが一番!!

あとは、人間力が高い人は、プロになりやすい!!

やはり、「縁」が全て!!



――「縁」が全てですか。海外で、チャレンジを考えている人たちにもお願いします!

猿田:人間至る処、青山あり。

意味は、「どこで死んでも世の中には自分の骨を埋めるぐらいの場所はある」ということ。だから、日本だけにこだわらず、広い世間に出ておおいに活動すべきだ。

この言葉通り、活躍する場がどこにあるか分からないので、色々な場所でどんどんチャレンジしてほしい。

ただ絶対条件は、今いる環境に愚痴を言わずに120パーセントの力で!やりきることが大事!!



――ありがとございます!なんだか、熱い気持ちがこみ上げてきますね!いよいよ最後になります。猿田さんにとって、サッカーとは何になりますか?

猿田:痛快無比!!

「貧富の差も関係なく、世界が繋がるなくてはならないもの」ですね。  (了)





























































J-GREEN堺
https://jgreen-sakai.jp

photo by Hironori Saruta
text by EeNa(Hidemi Sakuma)

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