猿田浩得(元プロサッカー選手)が海外を選んだワケ「柴村直弥から受けた影響が大きい」




タイのサッカープレミアリーグで、「キング」と呼ばれていた日本人の元プロサッカー選手がいる。彼の名は、猿田浩得(さるた ひろのり/38歳)。猿田さんは、広島県立山陽高校時代に全国高校サッカー選手権に出場。拓殖大学を卒業後、愛媛FCとYKK(現カターレ富山)でプレー。シンガポールとタイへ渡って華々しい活躍を遂げ、2018年2月に選手生活にピリオドを打った。猿田さんは現在、日本最大級のサッカー施設J−GREEN堺で運営業務に携わっている。<前編>となる今回、猿田さんに海外へ渡るまでのサッカー人生について振り返ってもらった。




――猿田さん、まずサッカーを始めたきっかけを教えてください。

猿田:兄がサッカーをしていたのと、キャプテン翼を見てオーバーヘッドをしたくなったのでサッカーを始めました。

――確かに翼君のオーバーヘッドは衝撃的でしたよね。小学生時代にサッカー以外のスポーツにも取り組んでいましたか?

猿田:サッカー以外ですと、野球、ドッチボール、バスケなど色々なスポーツをしていました。田舎育ちだったので、木登り、登山、川遊びもよくしていましたね。

――沢山こなしていたのですね。ところで、プロサッカー選手になりたいと思ったのは、いつですか?

猿田:小学5年生の時に、Jリーグが開幕したのがきっかけです。カズ(三浦知良)さんがかっこよ過ぎて、プロサッカー選手になりたいと思いました。

――憧れの選手はいましたか?

猿田:マラドーナです。マラドーナのプレーを真似して、よくドリブル練習をしていました。マラドーナの姿勢も真似をして、常に胸を張って生活をしていました(笑)。

――なぜ姿勢の真似を?

猿田:真似をしたら、マラドーナみたいに上手くなれると信じていたからです(笑)。

高校1年の時にその姿勢が身についたのですが、高校の先輩達に「態度が悪い」「生意気だ」とよく怒られていました(笑)。でも、舐めた態度をしていたのでボコボコにされたこともあります(笑)。



――小学生時代に力を入れた練習方法は、何でしたか?

猿田:体が小さかったので、アジリティをひたすら裸足でやっていました。時には、森に行って、木の間でアジリティをしたり、ドリブルもやりましたね。

中学と高校では、ひたすら1対1の練習をしていました。高校ではシュート練習にも力を入れていました。

――初めて履いたスパイクを覚えていますか?

猿田:ミズノのモレリアです。ミズノがずっと履きやすく好きだったので、タイ時代に所属チームにお願いして、ミズノと契約させてもらいました。タイではミズノ初めての契約選手になりましたね。

――中学時代はどうでしたか?

猿田:サッカーでは広島のクラブチーム(フジタSC)に入りました。中学の部活では、1、2年生の時に陸上部で足腰を鍛えて持久力をつけ、3年生の時に野球部に入りました。

――サッカーで脚力を生かすために陸上部に入った、というのは分かります。では、なぜ野球部にも入部を?

猿田:広島に住んでいたこともあり広島カープファンであったのと、実はサッカーを始める前までは野球をやっていて野球部に沢山友達がいたからです(笑)。俊足を生かすために、バントの練習をひたすらやっていました。

ポジションはセンターでした。フライのキャッチ練習で、ボールの落下地点にダッシュで入るタイミング(予想感知能力)をマスターできたことで、サッカーのボレーシュートが上手くなったのではないかと思っています(笑)。

――あはは(笑)。どういうことですか(笑)?野球ボールを手でキャッチできるようになったことで、飛んできたサッカーボールを足で捕らえやすくなった、ということになりますか?

猿田:そうですね。ボールが落下する場所まで素早くいけて、しっかり最後までボールを見てキャッチする練習していました。これにより、サッカーでも素早く落下地点に入り、しっかりボールをみてボレーシュートを決めることができるようになりました。完全に、後付けですが(笑)。



――次に高校時代の話をお願いします。

猿田:「強いチームに入って早く試合に出たい」という目標があったので、広島の山陽高校に進学しました。当時、山陽は広島県の決勝で3年連続、広島皆実と戦っていました。

――中学ではクラブチームでサッカーを。高校では部活。クラブと部活に違いを感じましたか?

猿田:ジュニアユースで育ってきたので、高校1年の時は本当に大変でした。特に上下関係は!!でもその厳しい1年間があったから、サッカーを続けることができましたね。

――広島県の大会で、どこまで勝ち進むことができましたか?

猿田:高校1年の時は広島県決勝戦で負けました。ベンチ入り出場なし。

高校2年では、県決勝でゴールを決めて広島県代表になりました。

全国大会の1試合目に前橋育英に0vs5で負け。悔しすぎて、学校を1週間くらいサボりました(笑)。

高校3年は、県決勝でPK負けでしたね。

――全国大会も経験したのですね。高校サッカーの素晴らしさは、どこにあると思いますか?

猿田:上下関係や理不尽なこともありましたが、人間力を鍛えられる、努力すれば認められる、素晴らしい3年間でしたね。

――卒業後、どのような道を?

猿田:正直何も考えていなかったです。「先のことより、今を頑張ろう」と思い、日々を過ごしていました。

高校3年の初めの頃に、高校の監督からサッカーに力を入れ始めた拓殖大学を紹介され、そのまま進学しました。



――大学時代も、サッカー中心の生活ですか?

猿田:サッカーとアルバイトに明け暮れていました。バイトは、コンビニの深夜、フィットネスクラブ、ダーツバー、コンサートの警備、設備、工事作業等です。

――それだけの数のアルバイトをやると、体調を崩すと思いますが。

猿田:大学時代に怪我を沢山しましたが、メンタルも鍛えられました。サッカー部を辞めそうになりましたが、近くに住んでいた兄がメンターとなって助けてくれたのが大きいですね。今でも家族愛は、人一倍あると自負しています。

――大学時代、何にこだわって練習をしていましたか?

猿田:シュート練習にこだわっていました。今思えば、小、中、高時代にもっとシュートを意識して練習していたら、より多くのゴールを取って活躍できていたと思います。

――ゴールを奪うことは、日本人選手の課題とも言えますよね。

猿田:今の日本では、テクニックやドリブルは上手い選手が多いですよね。練習できる環境が素晴らしいですが、肝心のシュート練習をできていない子達が多いので、最後のフィニッシュを外すのではないかと思います。

――なるほど。やはり練習しかないのですね。猿田さんは、大学を卒業してからプロサッカー選手として活躍されました。初めに所属したチームはどこでしたか?

猿田:大学4年生の時に、川崎フロンターレ、柏レイソル、ヴァンフォーレ甲府の練習に参加しましたが、プロ契約には至りませんでした。どうしようかと迷っていた時に、拓殖大学の玉井先生の紹介で、愛媛FCのトライアルを受けて合格することができました。

――合格を知った時に何を感じましたか?

猿田:正直、ホッとした気持ちと複雑な気持ちが入り乱れていました。愛媛FCは当時JFLだったので、「プロになれなかった」という悔しい気持ちもありましたからね。そのおかげで必死に練習し、プロになりたい気持ちが強くなりました!



――愛媛時代の思い出を教えてください。

猿田:2005年に愛媛FCに入団し、2年間在籍しました。

愛媛という街は本当に温かったですね。街ぐるみで街を起こしてチームを応援してくれました。街に楽しい人達が多く、みんなファミリーのようでした。

今の僕があるのは、愛媛時代のお陰であると思っています。「選手とは何か」を一から教わりました。ベテランの選手から、サッカーの本質や人間力の大切さを学びました。

――例えば、誰から学ぶことができましたか?

猿田:友近聡朗さん、羽田敬介さん、石丸清隆さん、小原光城さん、菅原太郎さん、児玉雄一さん、川井健太さんなど、多くの方々からあらゆることを学ぶことができたのは財産となっています。

また、サッカーの美味さ、ずる賢さや勢いなどは、若手の選手から学びました。高萩洋次郎、森脇良太、菅沼実、田村裕基、川又堅碁などですね。

――愛媛での2年間。結果を残せましたか?

猿田:納得のいく結果を残せなかったですね。

クラブは2006年からJリーグへの加盟が承認されました。僕はJリーグの開幕戦で愛媛の記念すべき第1ゴールを決めましたが、それから怪我もあり、レギュラーを奪えないまま解雇になりました。

まだまだやれる気持ちもあったのですが、身体とメンタルのバランスが崩れ、焦って怪我も沢山してしまいました。



――怪我は治りましたか?

猿田:愛媛をクビになり海外に行くつもりでしたが、怪我をしていたので不安がありました。怪我明け(まだ治りきってなかった)にJリーグのトライアウトを受けました。

――Jリーグのトライアウトはどのような場でしたか?独特な緊張感がありそうです。

猿田:実戦は約3ヶ月ぶりでしたが、ダメ元な気持ちでリラックスできていたので、予想以上に動いてゴールも取ることができました。

トライアウトにいた沢山の有名な選手たちと同じチームになれたので楽しかったです!「また参加したい」と思える空間でした(笑)。

――オファーはありましたか?

猿田:YKK(JFL)の楚輪博監督に声をかけてもらいました。まだ足に不安があったので海外を断念し、リハビリを兼ねてYKKでチャレンジすることにしました。

――足の怪我が回復し、納得いくプレーをできるようになりましたか?

猿田:膝の怪我は治りましたが、無理をしてプレーしていたので他の箇所を痛めました。

1年間在籍したYKKは富山の企業チームで、所属選手のほとんどが仕事をしていました。練習開始が15時からという毎日で面白かったです。ただ、みんなサッカーが上手で、サッカー愛が半端なかったです。富山では、走る大切さも学ぶことができました。

――練習開始まで仕事をしていたのですか?

猿田:僕はプロ契約だったのでサッカー以外をしていません。練習まで時間があったので、朝釣りをしたり、通信の明星大学にも通っていました。ゆっくり考える時間が増えたのは良かったですね。富山にいると、日に日に「海外に行きたい」という気持ちも上がっていきました。



――なぜ海外に行きたくなったのですか?

猿田:高校1年の時に韓国遠征に、2年の時にイギリス遠征に行ったことがあります。正直、食事も気候も言葉も全て合わず、ホームシックになりかけたので海外が苦手でしたね。

――それでも海外に行くワケですよね?

猿田:山陽高校時代の幼馴染で親友の柴村直弥(現TOKYO CITY F.C.)から受けた影響が大きいですね。柴村は大学卒業後にシンガポールでプロ選手になり、「サッカー以外の時間の使い方、様々な考え方、文化、宗教等に関して日本と違いがある」という話を聞きました。海外のサッカーよりも、オフ・ザ・ピッチの素晴らしさに興味が湧いて海外に行きたくなりました。

サッカー(=好きなこと)をしながら、違う国の文化に触れる。こんなことは現役のサッカー選手の時にしかできないことですし、「まずは挑戦をしよう」という気持ちが強く芽生えましたね。



後編>へ続く。


photo by Hironori Saruta
text by EeNa(Hidemi Sakuma)

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